レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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前回、オーストラリアGPでのコシンスキーの「最終戦オーストラリアGPでの「完璧な」勝利」が記憶に残っていると書きました。しかし、RACERSではそれが全く異なるように記述されています(36-37頁)。
レースで、コシンスキーは明らかに余力を残しながらレースを展開します。決して
「サイドbyサイドの激しい戦いを繰り広げる」
「露骨に苛つくカルダスの前でコシンスキーはタイトル獲得に向かって全開の戦いを続ける」
ようなレース展開ではありませんでした。
このレース、タイトルを手にするためには、コシンスキーは優勝するだけではなく、カルドゥスを3位以下にする必要があります。独走してしまえば、ブラドルが戦意を損失してしまい、例えチームオーダーがないとはいえ(コシンスキーにその確証があるはずもない)、ブラドルの上位にカルドゥスが来てしまう可能性があります。ですから、コシンスキーはブラドルの背後につき、ブラドルの闘争心を刺激する作戦を採ったのです。
そして、残り2周に入りスリップストリームから抜け出したコシンスキーがトップに立つと、あっという間にブラドルとの差を広げ、最速ラップを記録、最終ラップにさらに最速ラップを更新し(ただ一人の1分36秒台=1分36秒681)、
たった2周でブラドルとの間に1秒987もの差を稼ぎ出しトップでゴールしました。
一方で、プラクティス2位だったカダローラ(YZR)も、カルドゥスを抑えるため、余力を残しながら3位争いを展開、終盤にカルドゥスを引き離しだします。
まさに、コシンスキー、カダローラ、2人の作戦どおりの展開となったのです。カルドゥスのシフトペダルが破損したことが、この「作戦」にとって予想外で不要な結果でした。
なお、カルドゥスのシフトペダルが破損したのは、残り2周に入ってからで、ピットインしたのはRACERSの記述「残り2周」ではなく、「残り1周」だった記憶です。リザルトではカルドゥスが26周のレースで24周したことになっていますが、25周でピットインしても(ピットがフィニッシュラインの手前にあるので)24周しかリザルトに残りません。
コシンスキーに対する「残り1周ピットサイン」に書かれた「CARDUS OUT」(37頁)の「OUT」は、「カルドゥスがピットインした」という意味ではなく、「カルドゥスが大きくスローダウン」という意味です。
(23日夜加筆)
第3戦スペインGPの記事(21頁)では「最終ラップ、
最終コーナーひとつ手前。その前のコーナーでトップを奪いそのまま逃げ切りにかかったカダローラの
インを、コシンスキーが鮮やかに差し返して劇的な勝利を収めたのである~「最終ラップの
最終コーナーで抜いてくるなんて信じられない」と、カダローラも脱帽」
いったい、ライター氏は、コシンスキーがカダローラを抜いたのは「最終コーナーひとつ手前」と「最終コーナー」のどちらと言いたのでしょうか。
「最終コーナーのアウト」が正解です。あのレースの映像を当時見た人なら強烈に印象に残っているでしょう。ライター氏はスペインGPもオーストラリアGPも見ていなかったのかな。見ていなかったら間違ってもいいというわけではありませんが。
スペインGP
http://www.youtube.com/watch?v=-Q58dDeweps
7分40秒あたりからご覧ください。
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今日、発売でした。
1990年のヤマハYZR250 0WB9を中心としたヤマハ250特集です。1990年、ジョン・コシンスキーが世界タイトルを獲得しましたが、このシーズンのコシンスキーで記憶に残っているのは
・第1戦日本GPのプラクティスで圧倒的なタイムを記録したのに、スタート直後に追突させ排気管を曲げてしまい、ピットイン、そこから14位入賞したこと。土曜日午後、雨中のプラクティスを淡々と走った姿。
・最終戦オーストラリアGPでの「完璧な」勝利。
です。
今回の記事の中では、本文書き出し(8頁)で
「ヤマハは
1963年に開始した世界GP250㏄へのファクトリー参加」
と書き出しから間違えていますね。
また、1990年、PuigにYZRが与えられていたことが忘れられているように思います。
http://www.formulamoto.es/zona-competicion/2006/12/01/alberto-puig-1967/2442.html
また、公開公正したいと思います。
、

1987-88の全日本TT-F3特集、特にホンダ対ヤマハに焦点を当てています。
私は世界GP中心としたレースファンですので、当時の全日本TT-F3について少し忘れかけていました。ですから、今回の特集は非常に興味深く読むことができました。また、前号のヨシムラ・スズキとは異なり、ホンダ、ヤマハからの技術情報の提供もある程度ありましたので、嬉しかったです。
RACERSのブログ
http://racers.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/vol29-e987.html
では辛口のコメントが多いようですが、私は80点程度の評価です。
とはいっても少し気になる記述も。
79頁 「'70年代終盤に3年連続で世界耐久選手権を制覇した”不沈艦隊”RCB」
世界耐久選手権が始まったのは1980年。
81頁 「(RCB400について)規則でフレーム形式は変更不可なので」
こんなレギュレーションあったか? FZ750(クレードル)→FZR750(ツインチューブ)の変更のように、レーシングマシンとしての基本規定さえ満たせば、TT-フォーミュラの車体は自由だったはず。ただ、何年かは忘れたが、ノービス(国内A)TT-F3では市販車と異なるフレームへの交換が禁止された記憶。ライター氏はこのノービスクラスのレギュレーションを誤って解釈し、さらに国際Aに適用されると勘違いしたのでしょうか。
82頁 「さて(RCB400)NX0の燃料タンクもラバー製ガスパックである」
パック(pack)ではなくバッグ(bag)。ゴム製燃料タンク、あるいはゴム製バッグとした方がよい。男性の股間にぶら下っているのがbag(俗語)です。

内外出版のムックです。
ちょっと気になる写真が掲載されていたので購入しました。市販車の記事について私が何かを言えるレベルではありません。
レース関係の記事で気になったのは
86頁「(1980年日本GP)当日の決勝レースでは、壮絶な
4位争いを繰り広げていたグループのうちの1台が転倒し、みんなが巻き添えをくった。~最終的には3位表彰台に立ってみせたのである」
「4位」ではなく「2位」。4位争いで転倒し追い上げて2位→おかしいと思わないのだろうか。
実際のレース展開はこちら。
http://jfrmc.ganriki.net/ow48/ow48-2.htm
87頁「(1982年)全戦全勝(7連勝)」
「
出場した全戦で全勝(7連勝)という記憶。
88頁「(1984年)前年使った’83年型RGΓ500貸与と」
1984年に水谷が乗ったマシンはRGB500(市販)のはず。
98頁「(1984年型NSR500)シーズン7戦に出走して4勝をマーク」
「6戦に出走して4勝」の誤り。
南アフリカ:スペンサーがプラクティスを走るが、レースは欠場
イタリア:スペンサー優勝
スペイン:スペンサー欠場
オーストリア:スペンサー2位
西ドイツ:スペンサーNSで出場
フランス:スペンサー優勝
ユーゴスラビア:スペンサー優勝
オランダー:スペンサーリタイア
ベルギー:NSR出場せず
イギリス:マモラ優勝、スペンサーはこれ以降欠場
スェーデン:NSR出場せず
サンマリノ:NSR出場せず
(特記ない限りマシンはNSR500)
52頁「ちなみにTTフォーミュラ1の競技規則が改正されて、'84年から2スト500㏄も参戦できるようになったため(4ストは750㏄まで)」
1977年にTT-F1がマン島で行われた頃から2ストロークは500㏄まで。1980、1981年の鈴鹿8耐で2ストローク400㏄単気筒マシンが走っている。1984年に改正されたのは4ストロークの排気量(1000→750㏄)。
他にも気になる記述がありますが、あまり調べる気にはなりません。

今月創刊の雑誌です。
内容について私がどうこういうジャンルではありませんが、ケニー・ロバーツのインタビュー記事について・・・
29頁にロバーツの父が彼にホンダ50㏄を買い与えたということが書かれています。ロバーツのマシンといえば
自作マシン→トーハツ→ホダカ
だと思っていましたが、「ホンダ」説は初めて知りました。まさか、ライター氏がホダカをホンダと勘違いしたなんていうことは・・・