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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

マイク・ヘイルウッドとドゥカティ

こんな記事があった。
http://www.virginducati.com/manofducati/md02/

(写真説明)「マイク・ヘイルウッド、19歳。ドゥカティの2気筒175ccレーサーをテストした。この後、彼はこのマシンでGP優勝を果たす」
(本文)「175ccレーサーを駆って最初の3レースをすべて3位入賞、アルスターでは初のGP優勝をもぎ取り、スタンの期待に応えるのだった」

 世界選手権に175㏄クラスはない。そしてヘイルウッドのGP初優勝は1959年アルスターGP125㏄クラス。

「1957年、175ccのMVアグスタが彼にとって初めてのレーシングオートバイだった」

 125㏄の誤り。ライター氏は175㏄と125㏄の区別がつかないようだ。

 「翌年から彼はホンダ・ワークスチームに参加し、マン島TTではホンダとマンクス・ノートンで優勝、さらに250cc世界GPでは三回の優勝を果たし、シリーズチャンピオンも獲得するのである」

 ヘイルウッドは1961年250㏄クラスで4勝している。マン島でのホンダによる優勝のクラス(250㏄)が書かれていないので、よく分らない文になっている。

「翌62年にはMVアグスタに乗り500㏄世界GPをも制覇、チームメイトのジャコモ・アゴスチーニとともにMVアグスタのレース史に華々しい成績を残している」

 アゴスチーニがヘイルウッドのチームメイトだったのは1965年だけだが・・・なお、ヘイルウッドは1961年後半にはMVに乗っている。

「その後、再びホンダに戻ったヘイルウッドだが、計77回ものGP優勝という記録を持った彼をしても」

 76回の誤り。

「74年にニュルブルクリンクで大クラッシュに見舞われて、ヘイルウッドは左足を損傷する」

 右足の誤り。ヘイルウッドは本来、右足シフト/左足後ブレーキだったが、右足が不自由になったため、1978年の二輪カムバックの際には右足後ブレーキ/左足シフトに変えていた。

 他にもおかしな記述はあるが、これくらいにしておこう。



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忘れられたヤマハ0W17

1973年、ヤマハは水冷市販レーサー・TZ350/TZ250を登場させる一方、新たに350㏄、250㏄のファクトリーマシン0W16/0W17も登場させました。700㏄/500㏄4気筒プロジェクトはプロジェクト名・0W19で機種記号はそれぞれ0W19、0W20でしたが、2気筒350㏄/250ccもプロジェクト名・0W16だったと思われます。

 250㏄クラスでは1973年第1戦フランス、オーストリア、ドイツとサーリネン+0W17が
3連勝、第4戦イタリアの事故でサーリネンが死亡すると、シーズン後半からランシボリに0W17が与えられました。
 また、350㏄の0W16もシーズン後半(多分)に登場、ランシボリに与えられました。
 1973年後半、ランシボリが全てのレースで0W16/0W17に乗ったのかどうかは分りませんが、ランシボリは1973年後半、250㏄クラスで2勝、350㏄クラスで2勝しています。

 1974年に0W17は姿を見せず0W16のみが走り、アゴスチーニが5勝、ランシボリが1勝しています。

 1975年には前年の0W16をベースにした0W17(ツインショック)がセコット、高井(シーズン前半のみ)に与えられ、セコットが1勝、そして第6戦オランダで1975年型0W17(モノショック)が登場して第7戦ベルギーで1勝します。

 なお、0W16は350㏄クラスでアゴスチーニ、金谷が各1勝しています。

 こんな戦績の0W16/0W17ですが、
https://www.yamahamotogp.com/500-victories/bikes?filterby=years&filter=&order=asc
では0W17が全く登場しませんし、0W16も1974年のみ6勝したことになっています。

 1972年の水冷YZ634/635(350CC/250CC)も忘れられていますし・・・

ヤマハ 0W23は1974年に1勝したか?

https://www.yamahamotogp.com/500-victories/bikes?filterby=years&filter=&order=asc
 0W23が1974、1975年に6勝したことになっています。1975年にヤマハは500㏄クラスで5勝していますので、0W23が1974年に1勝したということになります。

 ヤマハ0W23は1974年ベルギーGPで登場しアゴスチーニが乗り2位でしたが、チームメイトのランシボリは0W20に乗りました。次戦スエーデンGPでランシボリが優勝したのですが、ランシボリは0W23に乗ることはなく、スエーデン、フィンランド、チェコスロバキア(最終戦)と0W20に乗りました。つまり0W23は1974年に1勝していません。したがって、同頁中の0W20の優勝回数も誤り。
 詳細はこちら。http://jfrmc.ganriki.net/ow23/ow20-2.htm

「0W23がベルギーGPで登場したのだから、その後のヤマハの戦績はライダーに関係なく0W23によるもの」とヤマハのサイトのライター氏(委託?)が思ったのでしょう。あるいは従来の誤り記事をそのまま写したのでしょうか。

 写真はチェコスロバキアGPでのランシボリ。0W20と0W23の区別がつかない方には無意味ですが。

ヤマハRD56は1969年に1勝したか?

1964、1965年の世界GP250㏄チャンピオンマシン・ヤマハRD56は1966年以降、各国の輸入元等に貸し出されレースに出場しました。市販レーサーとV型4気筒ファクトリーマシンRD05/RD05Aの間を埋めるマシンという位置づけでしょうか。

 フィル・リードが優勝した1969年イタリアGP250㏄についてのオートバイ誌1969-10の記事では「~P・リードが、ツインのヤマハ旧型工場レーサーで久しぶりに登場~」とあります。これだけ読むと、リードのマシンは市販レーサーTD2ではなくファクトリーマシンRD56ということになります。

 で、ヤマハのGP500勝記念サイトでもリードのマシンはRD56になっています(62勝目という位置づけ)。
https://www.yamahamotogp.com/500-victories/victories
 マシン編の
https://www.yamahamotogp.com/500-victories/bikes?filterby=years&filter=&order=asc
でRD56が優勝した年に1966年があるのは1969年のつもりなのでしょう。RD56は1966年に勝っていません。ヤマハが1966年に250㏄で挙げた1勝はRD05によるものです。

 1969年イタリアGP250㏄の画像をネットで探したのですが見つかりませんでした。でも燈台下暗し、私が持っている本にその写真がありました。左コーナーを走るリードを右斜め後方から写したもので、マシンは明らかに右チェーンのTD2(同時に写っているベネリ4気筒は左チェーンで正しく写っているので、ネガの裏焼きではない)。
 
 そんな訳で、1969年イタリアGP250㏄で優勝したマシンはRD56ではなくTD2である可能性が高いと思います。

※「可能性」としたのは写真が予選のもので、レースでは別のマシンが用いられた可能性が否定できないからです。
 ただ、件のサイトの他の誤りから推定できるライター氏の仕事ぶりからすると・・・

ちょっとだけ公開公正

http://www.honda.co.jp/SEEVERT/gallery/13_rc181/
「平均時速108.77マイル≒174km/h」
1マイル1.609344kmでなく1.6kmで計算しているのが何とも・・・

http://www.honda.co.jp/SEEVERT/gallery/07_rc143/
「(RC143)23ps/14,000rpmまでアップしたのである」
どんな資料を見たのだろう。

「4バルブ・べべルギヤ駆動のRC143型エンジンを搭載した2RC143というマシンが誕生した」
現存する2RC143のエンジン打刻がなぜ2RC143なんだろう。

http://www.honda.co.jp/SEEVERT/gallery/05_rc115/
「1961年にHondaが世界グランプリ50ccクラスに投入した4ストローク単気筒のRC111が一新され、1962年に世界初の4ストローク、2気筒50ccレーサーRC112がデビューした」
何を勘違いしているのか。世界GPに50㏄クラスが設けられたのは1962年シーズンからなのだが。

「1965年~7戦中5勝を挙げ」、「(1966年)6戦中3勝を挙げ」
1965年は欠場したUSGPを除外して「7戦」、1966年は欠場した日本GPを含み「6戦」。何かを丸写しして確認していないのかな。

「RC116は最大出力14ps/21,500rpm」
1973年に公開されたデータだが今となっては・・・

http://www.honda.co.jp/SEEVERT/gallery/02_rc142/
「ライトウエイト125ccクラス」
ウルトラライトウエイトの誤り。

「6位谷口のタイムは1時間34分8秒」
1時間34分48秒の誤り。したがって「タルキニオ・プロビーニの記録に遅れること6分43秒」も誤り。

http://www.honda.co.jp/SEEVERT/gallery/03_rc166/
「'66年、マグネシウムやチタン等の軽金属を多用した大幅な軽量化が施され、最大の問題であった熱対策もオイルクーラーを設ける事により解決された6気筒最終型となる"RC166"が完成」
当初は3RC165が用いられた。ところで1965年は「軽量化」されていなかったようだ。
 
「(1966年)Hondaが不参加の2レースを除き、出走した全てのレースに優勝」
不参加だったのはボイコットした最終戦日本GPのみ。優勝しなかったアルスターGPではグレアムが6気筒で出場している。「Honda」を「ヘイルウッド」にすれば正しくなる。

「(1967年)一方ヤマハがRD56に替わり前年登場させた2ストロークV型4気筒"RD05"が十分な信頼性を獲得」
RD05が登場したのは1965年の終盤。1967年には改設計されRD05Aになった。

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