レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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この写真のエンジンのV角は何度に見えますか(赤線を加筆)?
https://www.autoby.jp/_ct/17308712(写真の引用元)によると「70度」なんだそうです。このマシンは1968年型(記事では1967年)のヤマハ250㏄2ストローク水冷V型4気筒のRD05Aですが、記事によるとこの前のモデルのRD05のV角は90度だそうです。何年たっても同じ間違い記事を量産しますね。
「70度」は60度の誤り、「90度」は70度の誤りです。私がこちら(リンク)で2002年に書いた記事を紹介します。
「長い間、日本の雑誌屋は「RD05は90度VでRD05Aは70度V」と書いてきた~しかし、RD05がデビューした1965年イタリアGPのRD05の写真を見れば明らかに70度くらいであることは分る。また、1966年シーズン中の写真でも同様である。かなり前、ヤマハの元関係者にRD05のV角について私の考えをぶつけたところ、頷いて「そう、90度なんかないよ。まあ分度器があればだれでも分るんだけどなあ。」というご返事だった。さて、67、68年型のRD05Aは写真から60度辺りであることがわかる。前述の元関係者の証言、ヤマハが当時発表したペーパーでも「60度」となっている。そしてこの元関係者によるとRD05は「70度」とのことだった。」
なお、https://www.autoby.jp/_ct/17308712で回転計のレッドゾーンが「17000~18000rpm間から上~」と書いていますが、気筒あたり62.5cc=125㏄2気筒と同じこのエンジンにしては異常な高回転だとライター氏は思わないのでしょう。
写真では14000~15000rpmにもレッドゾーンがあります。この回転計は125㏄4気筒と250㏄4気筒の両方で用いられたもので、17000~18000rpmのレッドゾーンは125㏄4気筒・RA31Aのためものものです。
この記事、某誌に掲載された記事をそのままか、あるいは編集して掲載したようですが、他の記述も覚悟して読まれた方がよいと思います。
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この写真、ライダーの谷口尚己氏のアルバムに残るものだそうです。
https://www.instagram.com/p/BjjPMVzn4JK/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=drduq0m4uqaw
ブランデッシュコーナー(Brandish=ブランディッシュ)とされていますが、この風景はブランディッシュコーナーではありません。写真右下に構造物の一部が写っていますが、ブランディッシュコーナー周辺にはこのようなものはありません。また、写真右側のコース端とマシンの位置関係、マシンの向き・姿勢からここが低速コーナーと分りますが、ブランディッシュコーナーは高速コーナーです。
下の写真をご覧ください。路面の影(木陰)が上の写真と同じです。

https://www.motorcyclistonline.com/1959-isle-man-tt/
この場所はパークフィールドコーナーです。スタート地点からここまではマウンテンコースと同じですが、クリップスコースではここで右に曲がります。
現在のパークフィールドコーナー。

プリントされた写真を整理する段階で間違えてしまった例です。アルバムに貼られているだけなら個人の思い出ですが、公にする段階ではチェックが必要です。
「1959年、ホンダチームはマン島に行って初めてクリップスコースが使われることを知ったって?」でMat Oxleyの誤った認識を取り上げましたが、その続編です。
これは1959年1月にマン島を訪れたホンダの新妻氏、Hunt(左2人)。
この場所は「Clypseコース」で紹介した場所です。二人が立っていた場所の現在はこちら。

奥の木々は下の写真のようにかなり伐採されています。
ここは上写真の左コーナーに続いて2つ上写真の短い直線と右コーナーがあるセクションで、「Nursery Bends」という名前が付けられていました。マウンテンコースとクリップスコースで共通の道路もありますが、ここはクリップスコースのみに用いられた道路です。
当たり前のことですが、ホンダは1959年1月の段階でクリップスコースの下見をしていたのです。


という記事がこちらにありました。
https://togetter.com/li/1373687
原文は
”The big surprise that awaited Honda when they arrived on the IoM was that the riders had spent months learning the Mountain Course, using a translated Geoff Duke TT riding guide, only to find out that the 125 race would be run on the completely different Clypse course!”
日本語訳は
「マン島に到着したホンダの一行はとんでもなく驚くことになる。ホンダのライダーたちはジェフ・デュークによるTTライディングガイドを翻訳したものを頼りに何か月もかけてマウンテンコースを学んでいたのに125は全く違うクリプス・コースで行われることが判明したのだ!」
監督だった河島喜好氏の寄稿記事(モーターサイクリスト誌(1962/1~1962/3号)によると、
〇1959年1月に新妻氏とビル・ハントが調査のためイギリス、マン島に行った。河島氏も同行してコースを見たいと思ったが、行けなかった。
〇実際にマン島に行ってみると、想像したのと実際に見たのとは大違い。新妻氏の説明が悪かったのと河島の聞き方が悪かったのとの両方が原因。
現地調査はデュークのガイド本だけを持ち帰るだけの簡単なお仕事ではありません。コースを下見するのは当然です。また、主催者、あるいはそれに近い関係者からもヒアリングします。MFJがないのですから、ライダーのライセンスをどうしたら取得できるか、出場申込をどのように行うか、現地でマシンの整備はどこでやるのか、プラクティスの日程は・・・いくらでも調査することがあります。そんな彼らがクリップスコースが軽量級で用いられることを知らないはずがないのです。
原文を書いたMat OxleyはホンダがTT出場までにどんな準備をしたかを知らないのでしょう。あるいは(飯田氏にインタビューしたようなので)飯田氏自身が勘違いしている可能性もある。何しろ60年前のことですから。
それ以前にTTレースの1か月も前にマン島に到着し準備をしようというホンダがこんな勘違いをしていたという考えがおかしいことに気が付かないのですから、ジャーナリストとしてのセンスを疑うところです。
なお、クリップスコースが用いられたのは1959年が最後になるのですが、河島氏によると「1960年の春も近くなる頃に1960年のマン島TTは軽量級もマウンテンコースで行われることが発表され、しまったと思った。1959年のマン島遠征では観光のためにマウンテンコースを1周しただけで、詳しく調べていなかったから」ということです。この話がOxley氏の頭の中で、ホンダチームが1959年のTTの前にクリップスコースが使われることを知らなかったことに化けたのではないでしょうか。
参考 ビル・ハントの走行写真の地点をCregとしているのは正解です。この地点は間違いなくCreg-ny-Baaで、Creg-ny-Baaを略してCregということがあります。訳者が勝手にクレッグコーナーとしているのは困りものですが。
