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JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ヘルムート・ファト

2004年型以降のYZR-M1のクランクシャフトはいわゆるクロスプレーンになっています。
http://jfrmc.ganriki.net/zatu/yzr-m1/yzr-m1-fi.htm

上の記事の中で、URSという先例についても触れました。

このマシンに乗るヘルムート・ファトが1968年のサイドカー世界選手権を獲得しています。

ファトについて、ドイツ語のウィキペディアでは、

http://de.wikipedia.org/wiki/Helmut_Fath

でドイツ人となっていますが、日本語のウィキペディアでは

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B9

スイス人になっています。

ファトの生地のUrsenbachですが、Ursenbachといえばスイスの地名が有名なので、ライター氏はスイス人と勘違いしたのでしょうか。ドイツにもUrsenbachがありますが。
http://de.wikipedia.org/wiki/Ursenbach_(Schriesheim)

それにしても、日本語のウィキペディアの記事、URSが2ストロークのマシンになっています。こんな記事は迷惑以外の何物でもないです。
 
 
 

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MOTO-GP公式サイトの記録集

 1960年代のGPの決勝は何日かに分けて行われることがありました。マン島はその典型ですが、例えば1965年であればマン島以外でも、US、ドイツ、東ドイツ、日本が2日に分けて行われました。しかし、MOTO-GP公式サイト中の http://www.motogp.com/en/Results+Statistics

の記録では、このことが全く無視されており、マン島ですら、全クラス同一日に行われたことになっています。

 この公式サイトには、これ以外にも誤りがありますが、残念なことに、多くの資料がMOTO-GPのサイトの記録をそのまま安易にコピーしているようです。

 実はHonda Motorcycle Racing Legend vol.3(2009八重洲出版)の公開公正を作成していますが、この本にもMOTO-GP公式サイトと同じ誤りがあります。「おそらく間違えているだろう」という箇所を間違えていますので、分りやすいといえば分りやすいですね。

ホンダ S660 コンセプト

とうとう発表されたようですね。
http://carview.yahoo.co.jp/article/photo/101816/
三栄書房から特集号も発売されるようです。
http://www.amazon.co.jp/%E9%80%9F%E5%A0%B1-%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80S660-CONC/dp/4779620058


 
私もそろそろ退職を考える年齢になりました。これまで所有してきた車はいわゆるファミリーカーばかりでしたが、そろそろこんな車もいいなと思います。できれば屋根はハードトップで、6MTを希望します。
トヨタ86も行きつけのディーラーで見させてもらいましたが・・・
もちろん、バイクに乗るのをやめるわけではありませんが。

マイ・ワンダフル・サーキット

出典はこちら
http://www.honda.co.jp/riki-san/talk14/
「一方Hondaでも、この「1958年」にはちょとした事件があった。イタリアから、本場ものの「ロードレーサー」が、社内にやってきたのである。その名は「モンディアル」 このメイクスは1954年頃からGPレースに参戦しはじめ、瞬く間にトップ・コンテンダーにのし上がった。そして、57年のマン島TTレースでは、125ccと250ccの両クラスで勝利していた。 」

 125㏄クラスの1949~1951年のチャンピオンマシンは、FB-モンディアルなのですが・・・

続いて、出典はこちら
http://www.honda.co.jp/riki-san/talk15/


「これにつづけて、年が明けるとすぐに(1959年1月)、Hondaはマン島にTTレース参戦のための視察団を派遣する~
「ただねえ、この調査もチョンボだらけでさ!(笑)」   
リキさんは、笑って付け加えた。 
その最大のミステークは、この調査団がリサーチの対象としたのが、マン島の「マウンテン・コース」だったことである。   
たしかにTTレースは、この有名な公道コースで行なわれる。しかし、このときHondaがTTレース初参戦でターゲットにしていたのは125ccクラスであり、このクラスは、もうひとつのマン島のレーシング・コース(公道)である、短い「クリプス・コース」でずっと行なわれてきたのだ」

 クリプスコースは、125㏄、サイドカーは1954年から、250㏄クラスは1955年から用いられたが、まさかホンダが自社の出場するクラスのコースではなく、350、500㏄クラスのコースを調査するチョンボをしたとは思えないが・・・「1960年から全クラスマウンテンコースになって、1959年のクリプスコースの経験が無駄になった」ことと勘違いしているのでは。

1 タルキニオ・プロヴィーニ MVアグスタ  10周 118.5km/h
  2 ルイジ・タベリ           MZ          10周 117.8km/h
  3 マイク・ヘイルウッド     ドゥカティ  10周 116.2km/h
  4 フューグナー             MZ          10周 115.7km/h
  5 カルロ・ウッビアリ       MVアグスタ  10周 114.6km/h
  6 谷口尚巳                 Honda RC142 10周 109.9km/h

1位の平均スピードは74.06mph(マイル毎時)なので、1マイルを1.60934kmで計算すると119.2km/h、1マイル1.6kmとすると118.5km/hで、上は後者の計算と思われます。
ところが3位以下は、1マイル1.60934kmで計算したようです
2位の速度はどう間違ったのか分りませんが、間違い。正解は、1マイル1.60934kmで計算すると119.0km/hで、1マイル1.6kmとすると118.3km/h。

1961年の出来事

出典はこちらです。
マイ・ワンダフル・サーキットⅡ 鈴鹿から世界へ
http://www.f1-stinger.com/special/mwc/chapter02/talk18/

――デグナー選手は、当時の東ドイツから亡命という大事件を引き起こした後に、スズキのワークスライダーになったんですよね?

「それは1961年の9月、西ドイツで行なわれたGPのときのことでした。東独のMZに乗っていたデグナーが行方不明だ!というニュースが世界を駆け巡りましてね。日本では“デグナー”といわれても一般的な知名度はほとんどありませんでしたが、当時の欧米ではセンセーショナルな話題でした」
 
 西ドイツGPは5月開催で、東ドイツGPは7月開催。9月に開催されたのはイタリアGP、スェーデンGP。デグナーが亡命したのはスェーデンGP。こちらを参照。
http://www.iom1960.com/other/degner.html

――“MZ乗り”の名手、あの天才ライダーが“消えた”?

「略」

――いわゆる東西冷戦の真っ只中、“ベルリンの壁”が作られたのもこの1961年で、この年の10月には“キューバ危機”も起こっている。そんな時期の亡命というのは、よほどの決意ですよね。

 いわゆる「キューバ危機」は1961年ではなく1962年10月

「略」

――あ、そういえば《鈴鹿》の「デグナー・カーブ」って!?

「そうです、このセニア、50ccクラス10周でのレースでのことでした。前日の豪雨がウソのような快晴。スタートして、1~2周をトップで独走していたデグナー選手でしたが、S字コーナーから180Rの左コーナーを抜けた先、80Rの右コーナーで転倒しましてね~名手が転んだ!として、そのコーナーが“デグナーカーブ”と呼ばれるようになり、今日に至っているわけです」

 デグナーが転倒したのは4周目。

  
 まあ、キューバ危機の年を間違えるのは、少し恥ずかしいと思います。

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