鈴鹿サーキットの設計者は誰?
に次の記事を加筆しました。
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(6) 「1962年2月28日(水)の最終案があった この図では第5案(注:コース案変化2の案6)をもって最終案とされているが実はその後もあるのである。1962年2月28日(水)に本田宗一郎氏からフーゲンホルツ氏へ送られた書簡には「フーゲンホルツ氏のプランにはとても感謝する」の文字が添えられている。」 (文献1・22頁)
「その後」はない。
21頁の表では「1962年2月28日(水)」、「フーゲンホルツから最終提案が書面により伝えられ本田宗一郎がこれに満足した」とあり、1963年3月1日・土木技術誌に掲載の竣工図面が掲載されているので、フーゲンホルツの書簡があったとしても図は添付されていなかったと思われる。また、オランダに残るコース図は(4)で前述のとおりフーゲンホルツ案である。
文献1・22頁の各図は基本的にコース案変化1と同じものと思われ、航空写真とのずれが大きい。そのため、1962年1月15日付の図(最終案)と1963年3月1日・土木技術誌に掲載の竣工図面が異なるように見えるだけである。
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https://www.takahikonakajima.com/letter_Ron462.html にフーゲンホルツ子息の手紙(日本語訳)があり、そこに次のように書かれていました。
「父は鈴鹿での仕事に対し、多額のお金を受け取りました。もし父が設計者でないなら、ホンダはなぜそんなことをしたのでしょうか~オランダの国立自動車博物館に収蔵されている鈴鹿サーキットのオリジナル設計図面には父の署名が入っていたはずです」(フーゲンホルツ子息の手紙)
https://jfrmc.ganriki.net/zakkan/suzuka/suzuka.htm
に次の文を追加しました。
(中島の著書)「僕はオランダの知己に「塩崎定夫という日本人が自分自身が鈴鹿サーキットの設計者と名乗り出てフーゲンホルツは飾りである」と発言した事実を伝えていた。僕と交流のあったすべてのオランダ人はこれに憤慨していた~憤慨するオランダ人の中にベテラン・ジャーナリスト、ロブ・ペテルソン氏がいた~フーゲンホルツ氏が自信の言葉によって日本の鈴鹿サーキットを設計した一部始終を記録した記事~を送ってくれた」(文献1・2-3頁)
〇塩崎が語った内容は次のとおりで「フーゲンホルツは飾りである」とは語っていない。
「本田さんは「オマエが作ったコースでは誰も信用しないから、誰かガイジンを連れてこい、ガイジンなら誰でもいい」と言うんです」
「~フーゲンホルツさんの名前を出せばJAFでもどこでも話がスムーズに進みました。当時はそういう時代でした。日本人なら信用しないけど、ガイジンなら信用するというわけです(Racing on 461(2012-1))。
「フーゲンホルツは飾りである」に相当するのはライター氏の「事実上、フーゲンホルツは「名前貸し」、「権威づけ」のために担ぎ出された立場だったようだ」である。中島はライター氏の記事を塩崎の発言かのようにオランダへ伝えたものである。
フーゲンホルツの起用に「日本人なら信用しないけど、ガイジンなら信用する、というわけです」という側面があったことは否めないと思う。FIMにしろFIAにしろ日本の新参者にどういう対応をするか予想できないなら当然のことだろう。塩崎が語った内容は誤りではないだろう。
しかし、この発言だけでは塩崎がフーゲンホルツの貢献がなくフーゲンホルツを飾りと考えていたかどうかまでは分らない。どういう質問をするか、どの発言を記事にするかはライター氏の意図が反映されるからである。
塩崎は2012年に次のようにも語っている。
「誰も知らない日本の塩崎という者がつくったコースでは走ってくれないから、外国人を連れてこいと。知り合いから紹介され、オランダのサーキットを設計したフーゲンホルツ氏にコースの監修を依頼し、来日してもらった。」(日本経済新聞本社版2012/8/28)
この発言は、概略設計全体に対してなら疑問があるが、コースレイアウト設計に関しては特に問題はない。ただし、私は「監修」より「助言」の方が適切だと考える。